深田久弥について

深田 久弥(ふかた きゅうや)

1903年、石川県江沼郡大聖寺町(いまの加賀市内)に生まれた。
1971年、山梨県の茅ケ岳山頂近くの尾根で、脳卒中のため急逝。
68年の生涯だった。本光寺にある墓の裏面に、「読み、歩き、書いた」
と刻まれている通り、歩きに歩いた人生だった。
スタンダールの墓碑銘「生き、書き、愛した」にちなんでいるのは、久弥が生涯スタンダールを敬慕していたからだ。
世俗を嫌悪し精神の高さを求めて生きるという心を共有した。

国師岳にて

 久弥の「山」は、内なる精神を世俗から解き放つ場であった。
精神の開放の場として山々を歩いた。
戦前、鎌倉文士時代に小林秀雄を誘って雪山に入っていたのも、その一端だ。
戦後は小説よりも山の文章を多く書いた。
読売文学賞を受けた『日本百名山』をはじめとする山の文学は日本文学史に独自の地歩を築いている。なかでも故郷の山、白山を描いている幾多の文章は山の文学の白眉である。

山の文化館前館長 高田宏


略歴

  • 1903年(明36)
    3月11日、石川県江沼郡大聖寺町字中町(現加賀市大聖寺中町)に父弥一、母トメの長男として生まれる。
  • 1909年(明42) 6歳
    大聖寺町立錦城尋常小学校に入学。卒業後、同校高等科に入る。
  • 1914年(大3) 11 歳
    富士写ヶ岳に登る。初めての登山。
  • 1916年(大5) 13歳
    福井県立福井中学校(現藤島高校)に入学。
    大聖寺学生会・体育部徒歩部に所属する。
  • 1918年(大7) 15歳
    初めて白山に登る。
  • 1922年(大11) 19歳
    第一高等学校入学。
  • 1925年(大14) 22歳
    中野重治らの同人誌『裸像』に参加。
    第九次『新思潮』同人に加わる。
  • 1926年(大15) 23歳
    一高を卒業し、東京帝国大学文学部哲学科に入学。
  • 1927年(昭2) 24歳
    在学中ながら改造社編集部員募集に応じ、採用される。
  • 1930年(昭5) 27歳
    「オロッコの娘」を『文藝春秋』に発表し、文壇で絶賛される。
  • 1933年(昭8) 30歳
    川端康成、林房雄、小林秀雄たちと『文学界』を創立し、同人となる。
  • 1935年(昭10) 32歳
    日本山岳会に入会。
  • 1940年(昭15) 37歳
    父親の死後北畠八穂を入籍。
  • 1943年(昭18) 40歳
    母校の錦城小学校校歌を作詞する。
  • 1944年(昭19) 41歳
    応召。金沢で入隊し、青島から南京へ輸送された、湖南省を転戦しその後竜頭舗に駐屯。
  • 1946年(昭21) 43歳
    復員。
  • 1947年(昭22) 44歳
    志げ子との婚姻届けを出す。(北畠八穂と離婚)。
    越後湯沢の疎開先より郷里の大聖寺に移る。
  • 1948年(昭23) 45歳
    大聖寺句会が「はつしほ会」として発足。宗匠として迎えられる。
  • 1949年(昭24) 46歳
    錦城山岳会を結成、理事となる。
  • 1958年(昭33) 55歳
    ジュガール・ヒマール、ランタン・ヒマール踏査隊隊長として、約4ヶ月の遠征に出る。
  • 1959年(昭34) 56 歳
    山岳雑誌「山と高原」に「日本百名山」の連載を始める。
    『雲の上の道』を新潮社から発刊。
  • 1960年(昭35) 57歳
    本小屋”九山山房”が建つ。
  • 1964年(昭39)61歳
    『日本百名山』を新潮社から、『ヒマラヤの高峰』第1巻を雪華社から発刊する。
  • 1965年(昭40) 62歳
    『日本百名山』が第16回読売文学賞を受賞。
  • 1966年(昭41) 63歳
    シルクロード踏査隊隊長として、約4ヶ月の旅行をする。
  • 1968年(昭43) 65歳
    日本山岳会副会長に就任する。
  • 1969年(昭44) 66歳
    山渓賞(山と渓谷社)受賞。
    シルクロード旅行に講師として同行。
  • 1970年(昭45) 67歳
    ソ連一周とシルクロードの旅に講師として同行。
  • 1971年(昭46) 68歳
    3月21日、茅ヶ岳にて脳卒中のため急逝。